
オーソン・ウェルズ(George Orson Welles, 1915年5月6日 - 1985年10月10日)はアメリカ映画界を代表する映画監督、脚本家、俳優である。
本名 George Orson Welles
生年月日 1915年5月6日
没年月日 1985年10月10日(満70歳没)
出生地 ウィスコンシン州ケノーシャ
国籍 アメリカ合衆国
職業 俳優
映画監督
脚本家
配偶者 ヴァージア・ニコルソン(1934-40)
リタ・ヘイワース(1943-48)
パオラ・モリス(1955- )
幼少時代
オーソン・ウェルズは1915年5月6日にウィスコンシン州ケノーシャで生まれた。子供時代の彼は詩、漫画、演劇に才能を発揮する天才児であったが、傍若無人な性格で周りとの人間関係に問題があった。母は彼が9歳の時に亡くなり、父は発明に没頭するアルコール依存症の奇人で、祖母は神経質でオカルトと魔術に耽溺しておりウェルズとは嫌いあう仲であった。
父は彼をイリノイ州ウッドストックにある比較的自由な校風のトッド校に通わせたが、ここでウェルズは最初の演劇を制作し俳優として出演した。彼は登校早々に怪談で同級生を怖がらせ、手品やほら話を披露した。肥満児であったためいじめを受けると、トイレに駆け込んで赤いペンキを顔に塗り、大怪我になった演技をして相手を狼狽させた。これ以降誰も彼をいじめようとはしなくなった。ハロウィンでは学校を恐怖に陥れ、クリスマスにはキリスト受難劇やシェークスピアの劇を自ら演じた。この学校で彼は校長で義理の父親になったロジャー・ヒルの指導を受け、また神学者・哲学者チャールズ・ハートショーンの妻だった歌手ドロシー・ハートショーンの講義を受けた。
演劇人の時代
1931年、彼は16歳でアイルランドのダブリンにある有名なゲート劇場で脇役として舞台デビューを果たした。1934年にはアメリカに戻ってラジオドラマのディレクター兼俳優となっており、後にマーキュリー劇場で共演する俳優たちと仕事をした。この年、彼は女優で社交界の名士のヴァージニア・ニコルソンと結婚し、また『The Hearts of Age』という短編映画の共同監督となりニコルソンと共演している。
世界恐慌後の大不況が続く1936年、アメリカ政府による演劇人救済と大衆への演劇供給を目的としたプロジェクトである連邦劇場計画(FTP)が始まった。ウェルズはFTP責任者たちから注目され、わずか21歳でニューヨーク市ハーレム地区でのアフリカ系アメリカ人の俳優・スタッフたちとの演劇制作事業に、演出家として赴任した。彼の妻の提案で、彼は敬愛するシェークスピアの『マクベス』を、ただし舞台をハイチの19世紀初頭の圧政者、アンリ・クリストフの王宮に移してプロデュースすることにした。劇は批評家や口さがない人々の関心を惹きつけ多くの中傷を受けたが、公演が始まると大ヒットとなった。
『マクベス』成功後、彼は『フォースタス博士』などの舞台を制作した。1937年、ウェルズは労働者の戦いを描くミュージカル、『ゆりかごは揺れる』(原題:The Cradle Will Rock)の制作と演出を手がけたが、連邦劇場計画は内容を恐れて予算の制約を理由に制作を中止させ、俳優たちは組合から舞台に立つことを禁じられ、本稽古(ドレス・リハーサル)の初日に劇場を閉鎖してしまった。この後の、ウェルズと共同制作者のジョン・ハウスマンのとっさの処置はいまや伝説となっている。彼らは公演開始時間の直前まで劇場の前で待ち、チケットを持ってやってきた観客たちに、あらかじめ押さえておいた別の劇場に移動するようアナウンスした。20ブロック先の別の劇場までウェルズとスタッフ、俳優、観客たちは大挙して行進した。舞台にはセットもオーケストラも用意できなかったため、脚本・作曲を手がけたマーク・ブリッツステインが一人でピアノの前に座っていた。ウェルズたちは「舞台で演じてはならない」という組合の指令を逆手に取り、俳優や演奏者を観客席に座らせてブリッツステインのピアノに合わせて次々立ち上がらせて、劇を観客席のただなかで上演した。このミュージカルはこうした印象的な演出の評判でヒットした。













